こんにちわ、深島です。
一通り開発中のゲームのストーリーが完成したので、友達(シナリオのプロ)にゲームのリナリオを見てもらったところ、正確かつ優しく指摘してくれたのに、めちゃくちゃ落ち込みました。
季節の変わり目で、僕のメンタルが下がってるのもありますが、異常に凹んだので、なぜ落ち込んだのかを考えたのでお伝えします。
指摘は痛い!
はじめ友達が書いてくれた感想のレポートに(最後までプレイして詳細に指摘してくれることは本当にありがたい)目を通したときは、
正直なところ、
勘弁してくれ、僕なりに限界までがんばったんだ!
という自己弁護しか浮かびませんでした。指摘の文章を読むことすら、目を背けたくなりました。自分から頼んでおいて、失礼すぎますね。
創作に意見をもらうという経験がなかった
僕はプログラマ なので、プログラムに関しては仕事でコードレビューなどで指摘され慣れています。ですが、今回ゲームを個人で作るにあたって、お話ははじめて外部に公開するものになります。
つまり、お話に客観的な意見をもらうという経験がゼロなんですね。経験がゼロということは耐性/慣れもないわけです。水風呂に入ったことがない人が、お風呂場で水をかけられたような衝撃です。
とくに創作のお話なんてものは、自分の思想と近いものなので、自分自身が否定されているように受け取ってしまいました。(その証拠にシステム的に不便だとかいう指摘は素直に受け取れました)
それでもよくするには受け止めるしかない
しかし、明らかに目につく不備というのは、お客さんがプレイしてくれても気付く不備だと思います。
リリースされてからお客さんに迷惑をかけることを考えると、たとえ痛んでも、今、素直に修正していくしかありません。それを踏まえると、未完成のつたないものに指摘してもらえるのは本当に有り難いことです。
この本でも、ピクサーほどのヒットメーカーでもブラッシュアップ前の初版のシナリオはつまらないと書いてあるので救われます。
痛みを抱えながら作っていく
今回のことで、真の意味の『個人』開発でクオリティを上げるのは不可能だと思いました。
個人名義でも一定レベル以上の作品を出している人は、的確なアドバイスをくれる隣人がいるのではないでしょうか。
また、リリース後の他者からの客観的評価によって磨かれていくのでしょう。
ずっと練習をしてしまったり、新しいことに挑戦できない心理には、未熟さを指摘されて痛みたくないという気持ちもあるよなー、と思いました。
痛みたくないからやらない、というのは至極当たり前の話です。僕も都心に出ると、人混みに疲れて嫌な気分になるので郊外に引きこもってますし…。しなくてもいい痛みを避けるのは生きていく上で当然のことです。
ですが、その上で。
何かをやるときに生じる痛みはセット、不可分です。これを前提として捉えておけば、幾分足が軽くなるのかな、というのがお伝えしたかったことです。
夢は夢のように 過ごすだけじゃなくて
ラブライブサンシャイン!! water blue new world より
痛みかかえながら 求めるものさ
痛みに抱えながら完成したゲームはこちら↓
【作品紹介】フロンティアストーリー〜かんたん操作RPGゲーム〜
コメント